TV番組から生まれた植物生態の書 『植物の私生活』デービッド・アッテンボロー著 門田裕一監訳 手塚勲・小堀民恵(訳) 山と渓谷社 1998年 原タイトル The private life of plants:A naturaral history of plant behavior First publishued in 1995 BBC Books London |
このところ、国の各種の研究機関が「地球温暖化」現象に関する報告と、近未来予測とを立て続けに発表している。まさに看過し得ない発表ばかりである。今世紀末には、この地球上では、間違いなく食料の奪い合いとなることは必定と警告を発している。 思えば、現在、私たちの我が儘から、国は大きな借金を抱えているが、その「負の遺産」は、次世代の人々に受け継がれようとしている。次の世代の人々に対しては、大変申し訳ない次第である。しみじみそのように思いながらも、「個」として存在する私には、しかも、既に老齢の域に達している私には、どんなに歯ぎしりをしてもどうすることも出来ない悲しい現実の中で生きているとしか言いようが無い。 その国の借金ばかりではなく、上述の「地球温暖化現象」にしても同じことが言えるのではなかろうか。私たちが、各種の文明の恩恵に浴することによって快適にな日常生活を送らせて貰ったことによる「負の遺産」が「地球温暖化」ではなかろうか?このことについては、既に随分以前からたくさんの科学者達が声高に警告を発してきたのだった。だれもが、どうにかしなければと思いつつも、現在の快適な日常生活を離れようとはしなかった結果が、もはや切羽詰まった状況に至っていると言えよう。そして、人類全体に課せられたこの大きな難問の解決の糸口を見出すことも出来ない儘、これまた、次の世代へと申し送ろうとしているのである。 |
昔、『猿の惑星』というSF映画があった。TVの連続ドラマでも放映されていた。その一場面で次のような場面があったことを記憶している。 核爆発によって廃墟と化した地球上で、猿達が社会をつくり、人間達は猿達に見つからないようにして野生化して過ごしていた。 ある日、猿の国の博士と警察署長と警察官とが、人類文明の廃墟を探検に出かけた。そこで、一行は、遺物と化したコンピュータを発見したのだった。警察官達は、それが何かが分からず戸惑っていると、警察署長が告げるのだった。 「これは、コンピュータというものだ。とても重宝なものだから、持ち帰って使用が可能か調べてみよう。」 と。 すると、猿の博士は次のような言葉を発して、それを制止したのだった。 「よしなさい!かつて、人間達はこのようなものを過信してしまったから、現在のような状態を招いてしまったのではないか!文明の歴史から我々は学ばなければならない。見なさい!あの人間達の情けない姿を!人間と同じ過ちを繰り返さないためにも、このようなものは即刻爆破してしまいなさい。決して、人間の二の舞を演じないためには、是非そうしなければならない!」 と。 |
1960年代は、我が国では、公害問題が大きな社会問題と化していた。丁度その頃、岩波書店から『岩波講座 哲学(全18巻)』が刊行をスタートした。その第一巻のテーマは『哲学の課題』であった。その巻頭論文で、今は亡き務台理作先生は「哲学にとっての現代」と題して、概略次のようなことを述べていた。 人類の歴史を振り返ると、精神文明が興隆した時代と、科学技術が興隆した時代とが交互に入れ替わりながら現代に至っている。科学とは没価値的に真理を追究する学問である。それに対して、価値を追究するのは哲学の範疇にある。現代社会は、科学技術ばかりが先行してしまい、哲学はそれに対して少しも追随できない状況にある。その結果、現代社会には様々な歪みや弊害が生じてしまっている。だから、今こそ哲学者は、しっかりと使命を果たすべきであると言うのであった。あまりに短く要約してしまったので、抜け落ちもあろうかと思えるが、概略そのような内容だったと記憶している。 思えば、遙か遠い遠い昔、ギリシャの哲人プラトンは、『国家論』の中で、いみじくも「須く国家の元首たるや、哲学者であるべし」と述べていたのだった。 上掲の書の刊行から2年後に、平凡社の社会史シリーズの中の一冊として、川崎寿彦著『森のイングランド:ロビンフッドからチャタレー夫人まで』が刊行された。 大学の教養課程で、西洋経済史を選択した。講座の内容は、初めから終わりまで、イギリス経済史だった。だが、その講義内容がとても興味深く、また、担当した教授が如何にも誠実そうな人柄であったために、毎回楽しみにして受講したものだった。我が国と英国とは、地理的にも、歴史的な経緯においても対比すべき要素がたくさんあり、この講座内容は、私を虜にしたものだった。 その西洋経済史の影響もあり、川崎先生の上掲書を買い求めて読み通したものだった。川崎先生は、様々な文学作品からの引用を通して、社会史、或いは民俗史的な展開を試みておられた。大学での西洋経済史で、私は、18世紀半ばに、ジェームス・ワットが改良した蒸気機関の実用化による産業革命以降に、大量の自然破壊が生じたものと誤解していたのだったが、川崎先生は、その誤解を見事に打ち消してくれたのだった。 川崎先生は、様々な文学作品を辿りながら、次のように述べている。 「しかしながら、どのような作家にあっても、<自然>と<文明>の二律背反に対する態度(コミットメント)は、なかなか一元論的になものにはならない。ヴィクトリア朝詩人としてのテニソンにも、上記のような自然観と平行して、根源においては<文明>を築く人間の行為を英雄的なものと見る視点があったようだ。」(『森のイングランド』255頁) さらに、続けて次のようにも言っているのだ。 「<自然>と<文明>の対立は、ギリシャの昔から明瞭に示されている。すなわち、ゼウスとプロメテウスの対立抗争の神話である。火を盗んで人類に与えたプロメテウスは、それによって<文明>の創始者となるわけだが、<自然>界全体の支配者ゼウスに罰せられ 、コーカサスの岩に鉄の鎖で縛り付けられ、猛禽たちに内臓を啄まれる苦しみを受ける。 いっぽう人間は、プロメテウスにもらった貰った火を頼りに、ほそぼそと生き続けた。なにしろ彼らは自然界で一番遅れてきた存在であり、力も弱く、足も遅く、空も飛べない。しかも裸のままで生まれてきたから、火のそばに寄り添い、火で何やかやを作ってなんとかその場その場をしのぐ生き方しか出来なかったのである。 この段階では、<自然>の神ゼウスは確かに暴君であった。そして彼に罰せられたプロメテウスこそ人類の恩人、解放者であったろう。後生、ロマン派詩人達が、暴君を憎み、人類の解放者を賛美する趣旨をこめて、幾編ものプロメテウス賛歌を書いたのは当然であった。 しかし、彼らは<自然>の原理が暴君ゼウスにあることを見落としていた。<人工>を憎み、<自然>を熱愛したロマン主義者なら、その限りではゼウスとプロメテウスとの価値判断は逆転しても良かった筈である。しかし、このことは彼らの不注意というより、自然と文明と政治のかかわりあいから必然的に生じる、逆接であったのだろう。」(同所314〜315頁) |
学生時代に学んだイギリス経済史並びに川崎先生の『森のイングランド』双方から学んだことを要約すれば、次のようになる。 先ずは、冒頭の『猿の惑星』に登場したサルの博士の言ではないが、人類は<文明>こそが自分たちを快適な生活に導いてくれる術であると過信し、その恩恵に浴するごとにその味を占め、更に、より高度な<文明>の構築を目指し続けたのだった。その結果が、今日、のっぴきならないまでの事態を招いている地球温暖化と言うことなのであろう。人間は、自然界全体の支配者ゼウスが目を光らせて見守っていることを忘れて、<科学>だ、<技術>だ、<文明>だとより高い階段をステップアップし続けてきたのだった。 かつての緑の大地だった地も、鉄を作るために、木が次々と切り倒されて行ってしまった。そして、蒸気機関のためにも木は切り倒されていった。ところが、今度は、蒸気機関の燃料には、木では無く、石炭から作られたコークスが用いられる方向へと変化してしまった。加えて、鉄道なる文明の利器は、各都市に、石炭を運んでくれるようになってしまった。それは、各家庭にまで届くようになった。もちろん、鉄を作るために木を燃料とすることも無くなった。かつては、海外に向かう船は木造船だった。それも、金属製へと変化してしまった。家屋も木材で建築されてきたが、煉瓦造りへと変化してしまった。そうなると、木は切られなくなったかというと、川崎先生は、述べているが、今度は、木は要らないので切る方向へと変化してしまったと言うのである。つまり、人間の編み出した<文明>なるものは、<自然>とは相容れないと言うことなのである。 |
上には、標題の書とは、まるで関係の無い話題が長引いてしまった。だが、<自然の営み>ということをもう一度振り返って見つめなおす必要があるという意味での警告が務台理作先生や川崎寿彦先生の書には込められているといると思うのだ。 先日、あるスーパーの入り口にある牛乳の紙パック回収箱の前に、これまで目にしたことの無いような張り紙が目についた。 「紙パックの回収にご協力いただきありがとうございました。 お陰様で、昨年一年間で○○万枚の回収となりました。 これで、地球上の樹木○○万本が救われたことになります。 これからも、回収にご協力賜りますようお願い申し上げます。」 という内容だった。このような張り紙の文面を考えた人間は、果たしてどのような人物なのだろうと考えてしまったものだった。 実は、数日前の新聞に、これと関連した記事が掲載されていたからだった。その内容とは、一般家庭で購読している新聞一ヶ月分に使用する樹木の量はと言えば、我が国各地の道路にそびえ立っている電柱程度の樹木1本分であるというのだ。道路に見られる電柱程度の樹木と言えば、30年程度の年月を要してあの程度の大きさになるのであろう。つまり、30年を要して育った樹木を、私たちは、たったの30日程で使い切ってしまうことになるのだ。たとえば、ある自治体に十万世帯が居住しているとしたら、ほぼ10万本の樹木が、たったの30日で使われてしまう計算となる。それだけに、上述のスーパーの張り紙は、紙もリサイクルしましょうと訴えて居るのだった。 思えば、石油、石炭、天然ガスなどといった所謂化石燃料を人類が本格的に使用を始めたのは、産業革命以降と言ってもよかろう。化石燃料は、太陽から受けたエネルギーが何億年、何万年と言ったそれこそ気の遠くなるような長い年月を経て地球上に蓄えられたエネルギー源であると言えよう。それを、たかだか、2、300年程度で使い切ってしまいそうな勢いなのである。 つまり、人類は、「自然の」営みの速さ以上の速さをこの地球に求めていることになるのだ。 その結果が、地球温暖化であるとか、環境汚染といった状況を招いてしまっていることになろう。 |
私たちは、様々な角度から、<自然の営み>というものを見つめなそうことが出来よう。また、再認識の必要があろう。私の場合は、昔から興味のあった植物を見つめ直そうとと思ったのだった。そのような考えから、たくさんの植物関連の書物に目を通してきた。そんな中で、出会ったのは、今回のこの駄文の標題として取り上げた書、デービッド・アッテンボロー著『植物の私生活』(山と渓谷社刊 1998年)である。 本書は、植物学者が著した書ではない。著者は、イギリスのBBCTVの番組制作者だった人物である。その後、BBCの経営者となったが、やがて、その職からも退いて、その後は専らドキュメンタリーの制作並びに著述業へと転身した人物である。 このH/Pでは、等しく回想録の中で、別のコーナーでも記述したが、私も、数年間、某TV局で番組制作を担当した経験がある。ノンフィクションの番組であったが、一つの番組を仕上げると言うことは、様々な課程を経てから後に実際にオン・エアーされることとなる。そのテーマが、自分の専門分野とはかけ離れている場合には、事前に入念な学習が要求される。そのためには、様々な文献にも目を通し、様々な専門家の方々からご指導を仰ぎ、実際に様々な場所へと取材に回るのだった。どんなに短い番組であっても、実際には、仕上がるまでは、たくさんの時間と、たくさんの人々の知恵と労力とが加えられて居ることになる。したがって、当然、相当な額の費用が必要となることとなる。更に制作する側としては、結果的に、番組制作期間中に、たくさんの事柄を学ばされることとなるのだった。 本書も、実際には、BBCからTV番組として放映されたと言うことである。とすれば、当時のことだから、恐らくビデオ映像が残されていることだろう。或いは、今ではではDVD等に収録されて、販売されているのかも知れない。もし、実際に販売されているのならば、是非、その映像を見てみたいと痛感している。 とにかく、本書の内容を目にすると、著者であるデービッド・アッテンボローが取材に出向いた距離は膨大なものであろうと推測に易い。何しろ、取材範囲は、極地から熱帯雨林、そして砂漠地帯と可能な範囲を網羅して映像として収め、それをまた、書物の上では写真映像として提示してくれているのだ。何度も申して恐縮であるが、かつて、実際に番組制作にかかわった者として、先ずは、これだけの内容をまとめるためには、取材費用だけでも膨大な時間と人手と金額とを要するのではなかろうかと思った次第である。たとえば、世の学者諸氏に対する国からの補助金程度では、これほど取材範囲をひろげることは不可能であろう。 |
本書の素晴らしい点は、何よりも映像制作の専門家の書だけに各頁に挿入されている写真である。どれも見事な撮影結果である。しかも、一般人が、おいそれと目にすることの出来ないような植物写真が満載なのである。たとえば、ギニア高地での植物達の生き様を自分の目で見たいと思っても実現の可能性は乏しいと言えよう。 以前、オーストラリアで、実際に森林火災のあった場所を現地で目にしたことがある。オーストラリアでは、その森林火災を逆手にとって生き抜く植物達がある。本書でも、その様子を写真で紹介してくれているが、火事の4日後、7週間後、13週間後のそれぞれの写真が同一頁に掲載されている。恐らく、TV番組では、もっと多数の連続した映像が流されたのであろう。森林火災の後に復活するススキノキの様子が如実に示された写真といえる。単にススキノキを目にしたいと願うのならば、植物園で目にすることが出来よう。だが、森林火災直後の植物の様子などは、実際に現地に行かなければ目にすることは出来ないことは言うまでもない。オーストラリアの樹木は、概して高木である。そして、途中に枝が無いのだ。樹幹部分にだけ枝・葉が見られるのである。その典型的な樹木の一種がユーカリであろう。本書の説明によれば、森林火災にあっても、下枝が無ければ、炎は樹冠部分には達しないからという。 更に、マクロ撮影の写真が素晴らしい。もちろん、カメラ技術に巧みな御仁ならば、マクロ撮影等お手の物なのかも知れない。しかし、擬態化したランに向かって交尾を始めようとする雄蜂のシーン等は、実際にその場に行かなければ撮影は出来ない。実際にその場に行ったとしても、ランの開花時期で無ければ、それも不可能である。実際に、その場に、その時期に、その場所に行ったとしても、必ず雄蜂がやってきてくれるとはこれまた限らないということになる。 |
どんなに文筆の達人が、目の前の状況や状態を言葉巧みに描写しても、筆者と同じイメージを読者が脳裏に浮かべるとは限らない。その意味では、映像は、そうした言語の欠点を補ってくれると言えよう。本書に惹かれて理由の第一はその点にあったのだった。 著者のデービッド・アッテンボローは、本種の中で、次のような内容を展開している。 先ず最初に、植物達が、どのようにして子孫を増やそうと努力しているかについて話題を進めている。そこには、風や海流といった自然現象を大いに利用していることが述べられている。加えて、動物や昆虫等の生物も大いに協力していることを報告してくれている。植物も動物も地球上では共存共栄していることを著者は訴えて居るのだった。 次に、著者は、個々の植物が、何故、固有の場所に生きているのか、そこではどのようにして養分を得ているのかについて報告してくれている。 上に、動物も植物も共存共栄していると記述したが、そのためには、植物の側からの様々な駆け引きが用意されていることを報告してくれている。果たして、植物は思索をめぐらせるのか?植物は意思を有するのか?そうした事柄については、私の推測の外ということになるが、本書を読むと、それぞれの植物が、自分に与えられた環境に適応するためにそれこそ巧みな知恵を働かせているようにも思えてしまうのだ。もちろん、植物達は、自分が環境に適応して生きるために本能的な進化を重ねてきたのだろう。そして、その試行錯誤に成功した植物が今もこの地球上で生き延びているということになるのだろう。 植物達が、生き残るために,様々な工夫が込められていることを著者は見事な映像を用いてわかりやすく説明してくれているのだった。 特に、南極や北極等の局地や高山地帯、砂漠地帯などいった極限の地域でも生き残るための戦略が植物には存在していることに何度も驚かされたものだった。植物達は、人間のためだけに存在しているのでは無い。だが、人間をも利用して生き残っているということも本書では報告している。たとえば、その一例として、穀物類である。穀物の場合、種子が地上に自然に落下せずに、茎についたまま残っていることにより、人類の側とすれば誠に食料として採取するには好都合な存在である。だが、植物の側でも、種子を長い期間落下させずに留まらせることにより、人類が編み出した「農業」という人類のための方策を巧みに利用して、自分たちが生きる場所を人為的に広めてしまっているということになる。これも植物と人間との一種の駆け引きとでも言えよう。ただし、人類は、自分たちに有益と見なされる植物は人為的な繁殖を試みるが、自分たちの文明や文化に必要外と見なす植物には目もくれないということになる。 |
植物が、何故そのような形状をしているのか、或いは、何故そのような場所に自生しているのかと言った疑問に答えてくれるのが本書ということになる。 |
蛇足:まるで関係のないおまけ 今回は、イヴェット・ジロー(Yvette Giraud)のシャンソンを聴きながらのタイピングだった。今時、イヴェット・ジローの名を聞いて懐かしむ人は、相当な年齢に達している筈である。彼女がフランスでデビューしたのが1945年のことである。つまり、第二次世界大戦の終結した年と言うことになる。まだ、TV等各家庭に普及を見ていなかった時代では、音楽は専らラジオから流れてきた。彼女の歌声は、私の高校生の頃には、未だラジオから流れてきていたのだった。彼女は、何度も来日している。「あじさい娘」、「詩人の魂」「ポルトガルの四月」、「花祭り」等々と懐かしい曲ばかりである。彼女は、歌手デビューする前は、レコード会社のタイピストだったという。電話の応対時の声が素晴らしいというので、歌手デビューを勧められたのきっかけと言うことである。 今回の音源はCD。 |
H.26.04.04 |